共産党宣言14 古典の修行

階級として組織される


  「プロレタリアはこうして階級に、それとともにまた政党に組織されてゆくが、この組織は、労働者そのもののあいだの競争によって、たえずくりかえしうちくずされる」(51頁)。

「階級に組織される」とはどういう意味でしょうか。「全国に散らばって、競争のために分裂している」(48頁)状態から、労働者階級としての自覚を深めつつ、地域を越えて全国的にその団結を広げていくことです。地域を越えて全国的な職種別組合がつくられます。

イギリスでは1830年に、紡績職工の全国組織が中心となって全国労働保護協会が結成されました。イギリス最初のナショナル・センター(労働組合の全国組織)です。協会は組合員数公称10万人でしたが、実際には1万~2万人だったようです。結成後、1年あまりで活動は停滞し、やがて解体してしまいます(浜林正夫『イギリス労働運動史』学習の友社、80頁)。

しかし、この全国労働者保護協会の解体から1年後の1934年、「グランド・ナショナル」――全国労働組合大連合が結成されました。この「グランド・ナショナル」は、ロバート・オーエンの協同組合運動から生まれ出たものですが、オーエンの希望に反して急速に階級闘争の色彩をおびていきました。組合員は50万人とも100万人とも言われていますが、実際には1万数千人に過ぎなかったようです。この全国組織もまた、「流星のように一閃の輝きを残して、その年の夏に姿を消して」しまいました(土方直史『ロバート・オーエン』研究社、172頁)。
 

イギリスの10時間労働法

 
「しかし、この組織は、いっそう力強く、強固で、有力なものとなって、たえずくりかえし復活する。それは、ブルジョアジー相互間の分裂を利用して、労働者の個々の利益を法律の形で承認させる。たとえば、イギリスの10時間労働法がそれである」(『宣言』同頁)。

労働時間を10時間に制限する運動は、労働者のたたかい以前から、「労働運動の外」で進められてきました。

アシュリー卿ほか、博愛主義者によるもので、エンゲルスはその事情を次のように述べています。

「今世紀〔19世紀〕のはじめ以来、若干の博愛家の指導によって、工場における労働時間を1日10時間に制限する法律の判定を要求する、一つの党派か結成された。この党は、20年代にはサドラーの、その死後はアシュリ卿とR・オーストラーの指導のもとに、10時間労働法案が現実に可決されるまで運動をつづけたが、そのあいだ、漸次、労働者自身のほかに、貴族と、工場主に敵対するブルジョアジーのすべての分派とをその旗のもとに糾合していった。これは、労働者とイギリス社会における、まったく雑多な、極反動分子との連合であったから、10時間労働連動は、おのずから革命的労働運動のそとでおこなわれざるをえなかった」(エンゲルス「イギリスの10時間労働法」『全集』⑦240頁)。

アシュリー卿と博愛主義


アシュリー卿とはどのような人物でしょうか。平凡社『世界大百科事典』から引用します。

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(アシュレー卿=シャフツベリー伯)


「シャフツベリー伯 Anthony Ashley Cooper,7th Earl of Shaftesbury(1801‐85) 19世紀イギリスにおける最も著名で行動的な社会改良家の一人。1851年まではアシュレー卿として知られる。1826年に下院議員となり、保守党に所属、32年の選挙法改正法案に反対したが、46年の穀物法の撤廃には賛成した。1828年から精神病者の取扱いに関する委員会で活躍し、45年の〈精神病者法〉の制定で名をあげる。早くからリチャード・オーストラーやマイクル・サドラーとともに労働時間短縮運動に取り組み、33年、サドラーの後を継いで議会における10時間労働運動のリーダーとなり、47年に〈アシュリー法〉の別名で知られる〈10時間労働法〉を成立させた」
 
偉大な業績です。

博愛主義(Philanthropy)とは、全ての人を広く平等の愛することですので、階級対立を認めたり、闘ったりすることとは無縁です。

ですから彼らが10時間運動に取り組んだのも、博愛主義的立場からのものです。

1830年、ヨークシャーのリーズという町の週刊新聞「リーズ・マーキュリー」に「ヨークシャーの奴隷制」という投稿が掲載されました。

 「真実の述べるところがどんなに恐ろしく見えようと、真実をして語らしめなければならない。事実こそ真実なのである。男女を問わず何千ものわれわれの同胞、同じ臣民、ヨークシアの一都市のあわれな住民が、この瞬間にも、あの地獄のような制度、『植民地の奴隷制度』の犠牲者がそうである以上にもっとひどい奴隷の状態にある。……男女を問わず、しかもおもに女子で、年齢が7歳から14歳までの何千もの幼げな子供たちが、朝の6時から夜の7時まで、わずか――英国人よ、これを読んで恥を知れ――わずか30分しか食事と休養の時間を与えられずに労働するよう、毎日強制されている」(都築忠七編『資料イギリス初期社会主義』平凡社198頁)。

 あわれな住民、年端もいかない子どもたちが奴隷状態にある。このことへの同情と義憤が彼らを突き動かしました。

オスラーは、21歳以下の10時間労働を要求し、それがサドラー、アシュリーに引き継がれます。18歳以下の平日10時間、土曜日8時間労働、21歳以下の深夜業禁止、9歳以下の児童の雇用禁止が法案に盛られています。

法案の実現のためにアシュリーが取った方針は次のようなものです。

「賃金や資本の問題についての言及は行わない、児童、年少者の労働時間についてのみ扱う、ストライキ、威嚇等議会内外における雇用主への激しい言動は避けるというものであった。一言でいえば、穏健さの重視である」(前掲吉田論文、120頁)。

エンゲルスは言います。

「心やさしいイデオローグたちは、道徳、人間性、および同情の立場から、この社会的変革過程の貫徹にともなう、無慈悲な冷酷さや容赦なさとたたかうとともに、この変革過程に対抗して、消滅途上にある家父長制のもつ安定性、穏やかな気楽さ、つつましやかさを、社会の理想として掲げることを怠らなかった」(前掲「イギリスの10時間労働法」『全集』⑦241頁)。

ブルジョアジー分裂のなかで


そんな微温的な運動でなぜ10時間労働法が実現できたのか。エンゲルスは続けます。

「10時間労働問題が公衆の注目をひくようになってきたころ、産業の変革によって、その利益をおかされ、その存立を脅かされた社会のあらゆる分派が、これらの分子に結びついた。銀行家、株式仲買人、船主と商人、土地貴族、西インドの大地主、小ブルジョアジーが、このような時期に、10時間労働運動の扇動家たちの指導のもとに、ぞくぞくと結集した。
 10時間労働法案は、これらの反動階級や分派たちにとって、プロレタリアートと結んで、産業ブルジョアジーに対抗するための格好の地盤を提供するものであった」(同頁)。
 
1844年、アシュレーの法案はいいところまで行くのですが、首相ピールの反対にあい、いったんはダメになりました。それが1845年、ジャガイモの不作によって首相が穀物法を廃止し、このことが保守主義者の怒りを買い、辞任に追い込まれたのです。代わって、就任したのが10時間法案に好意的なラッセルでした。
 
穀物法は1815年に地主の利益を守るために、外国からの小麦輸入を制限する法律で、その廃止を、産業ブルジョアジーは求めていました。保護主義は工業製品の自由な輸出を阻害するからです。

「10時間労働法は、自由貿昜にたいする反動的反対者たちによって、地主、公債所有者、植民者、船主の諸勢力の連合によって、貴族と、ブルジョアジーのうち、みずから自由貿易主義の工業家たちの優位をおそれる部分との提携によって、通過をみた」(エンゲルス「10時間労働問題」『全集』⑦235頁)。

自由貿易主義を推し進める産業ブルジョアジーと保護主義の立場(=反動的反対者)の地主などとの対立、そして分裂のなかで、産業ブルジョアジーは一時的な後退をし、1847年6月1日、「いささかあっけなく」10時間労働法は成立しました(前掲吉田論文、123頁)。

マルクスの言った「ブルジョアジー相互間の分裂」とはこういうことだったのです。

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