共産党宣言15 古典の修行

労働者はブルジョアを助けた?

 「総じて古い社会内部の衝突は、さまざまな仕方でプロレタリアートの発展の歩みをはやめる。ブルジョアジーはたえまなくたたかっている。はじめは貴族とたたかい、のちにはブルジョアジーそのもののうちでその利益が工業の進歩と矛盾するようになった部分とたたかい、またつねに、すべての外国のブルジョアジーとたたかいで、ブルジョアジーは、プロレタリアートに呼びかけてその助けを求めることを余儀なくされ、こうしてプロレタリアートを政治運動にひきいれざるをえなくなる」(51頁)

「古い内部での衝突」、支配勢力のなかでの争いです。ブルジョアジーは、貴族とたたかい、ブルジョアジーのなかでも工業(産業)ブルジョアジーとそれ以外の、農業や商業などのブルジョアジーがたたかい、外国のブルジョアジーともたたかってきました。

 問題はつぎです。そういう支配層の分裂のときに、ブルジョアジーは、プロレタリアートに「助けを求め」、「政治運動にひきいれ」たのかどうか。

手元にあるイギリス近代史の概説書をひっくりかえしてみたのですが、前回取り上げた穀物法廃止=10時間労働法制定以外に事例が見あたらないのです。

 前回も紹介した浜林正夫さんの『イギリス労働運動史』(学習の友社)には、1830年代に始まった政治闘争として、選挙法改正闘争、工場法制定闘争、救貧法「改正」反対闘争、チャーチスト運動、が取り上げられています。いずれも、ブルジョアジーから「助けを求められて」の政治運動ではありません。たとえば、選挙法改正については、ブルジョアジーが、自分たちに都合のいい議員定数を求め、それを実現するのですが、労働者はそれに抗して「労働者階級同盟を結成し、基本的人権の保障、男子普通選挙権、秘密投票制、立候補者の財産資格の撤廃、議会の任期を1年とすることなどを目標として掲げました」(『イギリス労働運動史』85頁)。

「教養の要素」の供給   

「ブルジョアジーみずからが、自分自身の教養の要素をプロレタリアートに供給する。つまり、自分自身に向けられる武器を供給する」(51-2頁)

覚えていらっしゃるでしょうか?「ブルジョアジーが封建制度を打ち倒すのに用いた武器が、いまやブルジョアジーに向けられる」(45頁)。この連載の第10回に唐突に出てきた「武器」。この武器とは、教養のことです。

さて、どんな武器=教養をどのようにして供給したのでしょうか?

ここに書いてある限りでは、マルクスが何をもって「教養の要素」としているのかがよく分かりません。

教養とは「学問や知識を身につけることによって得られる心の豊かさや物事への理解力」(『明鏡国語辞典』大修館書店)であり、その基礎にあるのは、本を読むことだと思います。本を読むためには「字」を知らなければなりません。

民衆はどこで学んだのか

労働者やその子どもたち、一般民衆は、どうやって「読み書き」を学んだのでしょうか? イギリスにおいて義務教育が制度化されたのは1870年に初等教育法ができてからです(村岡健次・川北稔編著『イギリス近代史』150頁)。ですから『宣言』執筆当時には、義務教育はありません。

マルクスは、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに入学しました。ギムナジウムは大学進学の予備教育を行う9年生の学校で、ラテン語による人文主義的教育を重視しました。イギリスのグラマースクール、フランスのリセも同様です。これらの学校には、裕福な家庭の子弟しか入学できません。

では、労働者はどうやって「教養の要素」を学ぶ手がかりを得たのでしょうか。

19世紀に入ると、国教会系の「国民協会」と非国教会系の「内外学校協会」が結成され、それぞれ学校を建設していきます。1833年に国庫補助制度ができ、最初は学校建設費、のちに経常経費に対しても助成されるようになりました。

宗教教育が優先され読み書きの能力は二の次でした。作家ディケンズは「教室で教えられている内容に対して、小生はそれが世俗的なものでなく、あまりに多くの宗教的秘蹟や難解なもので、とても子供たちは理解できないと思う」と1846年に記事を書きました(青木健「ディケンズと宗教教育」『成城文藝』205号)。

青木氏は「当時の学校教育に欠けていたのは、知的訓練であり、キリスト教の理念や信条は教義問答や教壇から口頭で貧困者には伝えられ、学校で学ぶものではなかった」と、この論文で述べています。

教え方はというと、数百人の生徒を集めた学校で、祈祷・朗唱などは一人の教師が指導する一斉授業。マスプロ(大量生産)教育のはしりですね(笑)。

進度に応ずる必要のある科目の場合はいくつかのグループに分け,学力の高い年長者を助教(monitor)として指導にあたらせる方式をとりました。

このようなやり方が十分な成果を上げえないことは火を見るより明らかです。

これら二つの宗教系学校とは別に、民衆教育を担う種々様々な「学校」がありました。

5歳から7歳ぐらいを対象にした「幼児学校」(petty school)、女性が自宅で子どもに読み書きを教える「おかみさん学校」(dame school)、「労働学校」(working school)、「勤労学校」(school of industry)、「ボロ服学校」(ragged school)などです。

それぞれの詳細はよく分かりませんが、規模は小さく、学校というよりか、塾のようなものでなかったかと思われます。

労働者自身がつくった学校もあったようです。2つの宗教団体による「公的」な学校は、宗教教育やきびしい規律があるため拒否する労働者も少なくなかったといいます。労働者立の学校は「識字教育を主体に運営されており、労働者階級の教育要求に適っていたがゆえに支持された」のです(上野耕三郎「産業革命期イングランドの識字率と労働者階級教育様態」小樽商科大学『人文研究』71輯)。

petty school
           
                       「幼児学校」(petty school)
 

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